2010年9月7日火曜日

我が家と我は主に仕えん 7

ここからは、福岡県飯塚市で牧師をしている伯父のヨハネ出西勝信牧師の文章を使わせて頂きます。
        

 祈りの人と言うと格好いいが、言葉を変えると、祈らずには居られない人生を
歩いていたとも言える。
 母が祈っている姿を意識して見たのは、私が中学生になった年だった。

 私には8歳下の妹が居たが、5歳で天に召された。

 日本が戦争に敗け、食料事情が貧困な時代、私と弟で近所の川から採って来たしじみ貝が、
天ぷらとの食べ合わせで、自家中毒を起こして、あっという間に帰らぬ人となった。

 「美味しい、美味しい!」と言って喜んで食べた数時間後、突然高熱を出し、激しいけいれんを
起こし、意識不明に落ち入ってしまった。

 妹は末っ子で可愛いっ盛り、母の悲しみと嘆きは想像を絶した。

 あの時、私が貝を採ってこなかったら、こんなに早く一命を落とすことはなかったろうに・・・
少年の私の心も痛んだ。
 勿論母は、一言も恨みがましい言葉を口出さずに、努めて明るく装っていたが。

 妹が亡くなって3日目の夜半、声を忍んですすりなく人の気配に目を醒ました。
そっと目を開けると、部屋の片隅にうづくまるようにして、肩をふるわせて泣きながら
祈っている母の姿があった。
 翌晩も、次の夜も、家族が寝静まるのを待って、母はそっと寝床を抜け出して祈っていた。
両頬に伝う涙を拭おうともせず・・・「神様、どうしてですか?・・・」


 戦中、戦後の混乱の時代、美味しいものも食べず、可愛い洋服も着せてやれず・・・
母には、何もしてやれなかった我が子への不憫さと、悔いが残ったのだろうか・・・

 けいれんを起こし、意識が無くなった妹を囲んで、両親と姉と弟、私の5人は必死に祈った。
夜を徹して。
 《神様 子のこの命を助けてください。 この子が助かるのだったら、何でもしますから。》
母の祈りは、みんなの思いだった。翌日、午前11時、妹は一度も意識を回復しないまま
眠るように息を引き取った。






      

 5歳の妹は、眠るように、その短い生涯を終えて天に帰った。 愛する我が子を天に送って十余年、信仰と共に笑顔も甦った。
  


 私たちの家族の必死の祈りは,天に届かなかったのだろうか。
その時、母にも、大いなる神の摂理があった事を知る術もなかった。  







           
        つづく・・・

どうかわたしの涙を、あなたの皮袋にたくわえて下さい。
詩篇  56-8

  
なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
彼らは、涙の谷を過ぎるときも そこを泉のわくところとします。
                 詩篇  84-5・6



- Posted using BlogPress from my iPhone

0 件のコメント:

コメントを投稿